小山田了三とは

郡内小山田家三十五代(1932−2009)。技術史家。岩手県出身。
学歴:岩手大学(教)卒業(1955年)。
   東京工業大学大学院修士課程修了(1964年)工学博士。
職歴:中学校・高等学校教員(1955〜1964年)。
   科学技術庁金属材料技術研究所主任研究官(1971年)。
   長崎大学教授(1978年)、
   山梨学院大学教授・一般教育部長(1986年)。
   富士大学学長(2000年)

郡内小山田家とは

 室町の頃、甲斐国(かいのくに)の東部、現在の山梨県の都留市、大月市、富士吉田市、
西桂町、丹波村とその周辺地域を含めた地域は、郡内と呼ばれていました。郡内の呼称が
いつ頃始まったか分かりませんが、甲州の地をさす国中(くになか)の呼び名に対して、
この地域の強い独立性を含ませた呼び方であったと考えられます。
 中世(鎌倉時代から室町時代)を通じてこの地に勢力を張っていたのが、桓武(かん
む)平氏の一流であった郡内小山田氏でした。
 伝えられている郡内小山田氏系図には、十七代の人々が記(しる)されています。
 郡内小山田氏の初代は、武蔵の国の大豪族であった秩父重能(ちちぶしげよし)の子、
次男小山田別当有重(べっとうありしげ)で、現、東京都町田市小山田に往んでいました。
その四男六郎行幸(ゆきひら)が田原行幸(たわらゆきひら)を称し、彼は、横山氏から
嫁いだ母の所領地であった、田原郷(今の都留市の中心部)を受け継いだと伝えられ、当
時の街道の要所に当たる中津森に往んだと考えられます。
 鎌倉時代から鎌倉御家人として勢力をはった小山田氏は、17代にわたり郡内の政治に
力をそそぎ、また、武田、北條、今川など、周辺の諸国とのちみつな外交を行うことで、
自領を保ち続けてきました。特に、南北朝以後、隣接する国中の武田氏を、時には助けた
り、時には争ったりしながら、深い血縁関係を結んで、武田氏の勢力が最も強かった戦国
時代(信虎、信玄の時代)にも、武田氏の傘下にはありながらも支配権を失うことなく、
その独立性を保持してきました。
 こうした努力によって、郡内小山田氏は、400年の長きに渡って郡内を統治してきた
のです。
            ⇒ 続きはその後の小山田氏をご覧ください。

岩殿山と小山田信茂

2011年4月15日発売の東京新聞に、岩殿山と小山田信茂の記事が出ていましたので紹介します。
岩殿山はスカイツリーと同じ高さ(634m)で、甲州なのに武蔵(634)とは!
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絵画


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小山田信茂出陣
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陶磁器


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小山田家に伝わる
江戸初期の陶磁器
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置物


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小山田家に伝わる江戸時代の雛人形
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絵図


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文政13年(1830年)の山梨の地図
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川中島の合戦布陣図
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掛軸


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崋山弟子の山本琴谷作
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小竹斎の五言絶句
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古文書


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生活用品


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漆塗りの文箱
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武具


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軍扇(都留博物館蔵)



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